水上 朝比 (飯田風越高校2年・駒ヶ根市)
〈廃棄する食品の多さに…〉
豚肉、二ンジン、じゃがいも、よし、今日は肉じゃがにしよう。その前にちょっと小腹がすいちゃったからとうもろこしでも食べようかな。あ、でもこれ5日くらい前に茹でたやつか…色が変ってるし、捨てよう。あ、この納豆2週間前に賞味期限切れてる! 危ない危ない処分処分っと。…このような光景、あなたの家では見られるだろうか。
初めてアメリカのレストランに入った。出てきたのは山盛りのスパゲッティ。6人で分けるのには十二分すぎる量で、とにかく量が多かった。最終的にすべてのテーブルに運ばれたお皿には料理の約3分の2が残っていたが、その皿を当たり前のように店員が下げていった。
考えずとも、あの料理の行く末は想像できる。とても衝撃的だった。「どうしてそんなにもったいない事ができるの…」と思った。セキュリティーの仕事をしているおじいさんに「たくさん残ってしまった料理が平気で捨てられることについて」尋ねた。「とても残念なことだ。世界には食事があるだけで幸せという人が沢山いる。食べ物があることに感謝し、食事ができない人たちのために何か行動すべきだ」と話してくれた。
しかし「日本で冷蔵庫を開けた時、いつでも沢山の食べ物が入っていて、何を食べようか迷うことができるだろう」と言われた。その時、私たち日本人も多くの食べ物を廃棄、処分している事を思い出した。日本は、賞味・消費期限切れ、色・形の悪さなど、とりわけ気にする国で、他の比べてみると素晴らしいことのように思えるが、現実はそういった規定から外れた食品のほとんどが廃棄処分されている。さまざまな問題を起こさないための対策であるが、私たち日本人が考えていかなければいけない問題の一つであることには違いない。
では私たち消費者に何ができるのだろうか。第一として、「食べ物を残さない」ということ。お皿をきれいにして、いただきました。と手を合わせよう。そして今度は冷蔵庫を覗いてみよう。無駄にしてしまった物は無いだろうか。食品を買う際にも、必要な分だけを買う心掛けをすれば、経済的にも良くなっていくはずだ。こうしたあなたのちょっとした心掛けで、日本は変わることができるかもしれない。
〈自身で見出す自由に〉
「日本どうなっちゃうんだろう」。秘密保護法が強制採決されたとき、私はこう思った。そして疑問を抱いた。私たちの自由は本当に存在しているの? 「報道の自由」―アメリカの建国の大きな礎となっている自由の一つであり、日本にも存在しているといわれる。アメリカで働く日系人記者に「アメリカと日本に“報道の自由”はあると思いますか」と尋ねると、「アメリカには日本と比べてはるかにある。政府と戦うのがアメリカ、協力的に見られるのが日本。妥協すべきでない、日本はもっと戦うべきだ」と力強く話してくれた。
またこの質問に対し、共同通信ニューヨーク支局の尾崎元さんは「存在する。しかし、存在するからといって好き勝手に報道することは自由ではない。自由を与えられている限り、それを常に点検し見直していかなければならない」と語った。さまざまな人に話を聞くなかで、報道機関は実際に「政府からの圧力」を受けていること、日本に「記者クラブ」というものが存在すること、などの事実も知ることができた。とても難しい問題だとあらためて感じた。
世界報道の自由度ランキング61位(180カ国中)の日本。秘密保護法や福島第一原発問題が関わってきていると言われ、世界の報道の自由から、日本は逆行しているように思われる。世界中で、インターネットやスマートフォンが発達し、自分の意見やさまざまな情報を発信、受信することがとても簡単になってきている。ある意味、自由になり、ある意味締め付けがきかなくなっている。きちんとした情報が私たち国民に降りてきているのかあいまいな今、自分で情報を取捨選択しなければならなくなってきている。私たちの自由は、「与えられる」のではなく、「自身で見出す」ものになっていくのではないかと感じた。
〈日本、世界の自由と平和とは?〉
自由の女神の足元に注目したことはあるだろうか。そこには引きちぎられた鎖と足かせがあり、それを女神が踏んでいる。当時アメリカに存在していた抑圧や弾圧からの解放を意味し、1886年以降、アメリカの自由の象徴としてそこに立っている。そんなわけか、「アメリカ=自由の国」という印象を持っている人も少なくないはずだ。そして私もその一人であった。この6日間さまざまな方々から話を聞いてきた。そして一つ、気になることができた。それは、「日本の、世界の『自由』って『平和』って何だろう」ということだ。結論から言うと、派遣が終わった今でも何なのか分かっていない。
アメリカには、肌の色、人種の違いから起こる差別、経済格差などの問題が存在している。私たちは実際に差別を体験した。悔しくて、悲しかった。しかし気がついた。私たち日本人も外国人に対する差別をしていることを。銭湯の入場拒否など、調べてみるとこれでもかと出てくる。なんだ、日本もアメリカも変わらないじゃないか。これで自由の国と言えるのか。自由って何なのだろうか。
9・11トリビュートセンターのアンさんは、「あなたにとっての平和とは?」という質問に、「子どもや孫が戦争に行かなくなる世界」と答えた。しかし「戦争はあったほうがいいと思いますか?」という質問には、「もちろん無いほうがいい。しかし、避けられない戦争もあるとは思う」と答えた。現在、日本では、集団的自衛権を行使することが決議され、同盟国であるアメリカの手助けをする日がやってくるかもしれない。戦争しないから平和なのか。戦争して訪れる平和のために戦うのか。平和って何なのだろうか。
私にはいくら考えても分からなくて、この世界にはどちらも存在していないようにも思えてしまう。あまりにも漠然としすぎている。実態が何なのか分からないにもかかわらず私たちは、自由を、平和を、語りすぎている気がする。だから、簡単に「自由の国」や「世界平和」のように使ってはいけないのでは、と私は感じた。
戦後70年が経った今、あなたが考えるこの国の、世界の「自由」と「平和」とはどんなものだろうか。自分の中のそれらが、本当にそうなのかもう一度考えてみてほしい。そして誰かと伝えあってほしい。そうすることで戦争や核の存在をあらためて知り、考え直す事が出来ると私は思うからだ。戦争をただの過去にしないために、これからの未来のために、考えてみる事から始めよう。