河野 恵理子 (伊那北高校2年・箕輪町)
〈未来に目を向けて生きる〉
8月6日のアメリカで30人ほどに「今日は何の日か知っているか」と、質問をぶつけてみた。日本人にとっては特別で忘れることのできない日だ。しかし、アメリカでは知られていなかった。答えることのできない人ばかりだった。そこで「70年前に」「広島で」と付け足すと答えられない人は一人もいなかった。30人ほどの中で唯一、車いすに乗ったおじいさんが「8月6日は広島に原爆が落とされた日だ」と即座に答えてくれた。
その時、私はもやもやしていた気持ちがなくなった。大事なのは原爆が落とされた日を知っている事でなくて、落とされたという事実を知っている事だと思ったからだ。日にちは大事だが「知っている」ということが一番重要なのだと思う。
しかし、知ってどうすればよいのだろう。日本で友達に「正直、戦争のことを知らなくても大学には入れて生きていける」と言われた。私もその通りだと思った。しかし、違うとも思った。後世に伝えていく必要があるからだ。知らなければ伝えることもできない。
まず「知る」という行動を起こすべきだ。戦争があったという事実、戦争は苦しみしか生まないということを知る。そして、未来を造っていくのは私たちなのだから、自分には無関係だと思ってはいけない。
私は過去を振り返り、学び、終戦から日本を立て直してくれた、先の日本人に感謝し、未来に目を向けて今を一生懸命生きたい。
〈納得できず耐えられない差別〉
私は差別を受けた。ヤンキースタジアムで私は「ジャップ」と、何回も浴びせられた。怒りに震えた。しかし、言い返すことができなかった。我慢することが美徳だと思ったからだ。しかし、それは間違いだったと日系人記者に教えていただいた。フレッドさんは、「二度と言うな。言ってはならない言葉だ」と相手に教育するべきだったとアドバイスしてくれた。が、私にはハードルが高いことだと思った。
なぜなら、彼に会う前日にワシントンのニュージアムで「Japs Accept Allies Terms Unreservedly」と大きく書かれた、1945年に発行された新聞を見た。それは、「ジャップが無条件降伏を受け入れる」という意味で原爆投下後の新聞であった。私は憤慨する思いだった。しかし、それ以上に空虚感を強く覚えた。
その日の夕方、私は、実際にアメリカ人に何回も「ジャップ」と言われたのだ。アメリカは自由の国という強い憧れを持っていた私はとてもがっかりした。70年たった今もアメリカ人は私達日本人を差別の目で見ているのだと感じ、さらに、英語で言い返すことができない勇気のない私が情けなかった。
日本に帰った今、ヤンキースタジアムで「ジャップ」と言われた経験は滅多に経験できないことだったのでうれしく思うことができる。しかし、新聞に書かれていた「ジャップ」には今も、これからも納得できず耐えられないだろう。