取材報告

帰国後の取材報告です。

五十嵐 唯人  (東北中学校/中2・長野市)

☆「設計から解き明かす国連に込められた思い」

 あいにくの曇天の中、国連ビルは高くそびえ建っていました。僕は現地に来る前から国連ビルの設計に興味を持っていました。国連ビルを初めて見た時の第一印象は「変哲のない一般的なビル」でした。そこで国連ビルを設計した設計士を調べてみることにしました。国連ビルは、ともに世界的な建築家のオスカー・ニーマイヤー氏とル・コルビジェ氏が設計したビルです。そこで僕は、オスカー・ニーマイヤー氏に注目し焦点を当てました。
 オスカー・ニーマイヤー氏はブラジル、リオデジャネイロ市生まれでリオデジャネイロ国立芸術大学建築学部を卒業し、レーニン国際平和賞(1963年)、アメリカ建築家協会ゴールド・メダル(1970年)、プリッカー賞(1988年)、高松宮殿下記念世界平和賞(2004年)などさまざまな賞を受賞しています。
 そんな世界的な設計士がなぜ僕に、第一印象で「何の変哲もない一般的なビル」という印象を与えるようにビルを設計したのでしょう。巨匠が作った駄作というわけではないですが、なぜどこにでもあるような一般的なビルの形に設計したのでしょう。ニーマイヤー氏の設計の特徴と現地で見ることから解き明かすことにしました。
 ニーマイヤー氏の設計した建造物の特徴は曲線を使って構成されていることだと思います。ニーマイヤー氏はコパン・コンプレックスという建造物を設計しました。このコパン・コンプレックスはブラジルサンパウロ市にあり、敷地面積は10572.80平方メートルというとても巨大な居住用ビルです。このビルの特徴は前面の壁が波のように曲がっていることです。
 しかしニーマイヤー氏が設計したブラジル旧保険省庁舎やブラジル大統領府は曲線が使われていません。国連ビルの壁は一切曲線が無いシンプルなデザインのビルでした。この違いを自分なりに考えてみました。まずコパン・コンプレックスとブラジル旧保険省庁舎の違いは政治が関係しているか、いないか、ということです。曲線はグラフにすると安定しません。これは、政治の関係している建造物に曲線を使うのは縁起が悪いとニーマイヤー氏は考えたためではないでしょうか。
 この考えを当てはめると曲線の使われていない国連ビルは世界の中心地なので、平和を願いニーマイヤー氏は曲線を使わなかったのではないでしょうか。
 また、この建造物には彫刻的な物がついていません。ニーマイヤー氏が設計したブラジルのあるブラジル大統領府には彫刻がついていました。なぜニーマイヤー氏はこの国連ビルに象徴にもなる彫刻をつけなかったのかと僕は現地で思いました。
 中に入ると庭に馬に乗った勇ましい男性が兵器を壊している銅像がありました。この銅像を国連のガイドさんはロシアから贈られたものと言っていました。国連の中に入ると、ペルシャから贈られた絨毯やインドから贈られたオブジェなど各国からの贈られた物がたくさんありました。これは各国から贈られた物がある中、彫刻を国連の象徴にすると、その彫刻を造った国が国連の象徴になることを表すと第三者にとられることを避けたのではないかと考えました。
 国連ビルの内部には様々なものが展示されていました。例えば広島に落とされた爆弾も展示されていました。他にはUN(United Nations)と記してあるヘルメットや軍用品などもありました。国連は平和維持のための機関なので、戦争には参戦しないというイメージがありましたが紛争などが起きた場合、両勢力を引き離すために出動するそうです。話し合いで解決せず軍事行為を行い解決することに少し悲しみを覚えました。
 あくまで僕の見解ですが、この考えを当てはめると「ただのビル」はあらゆる願いを建造物という形として残した「理想のビル」になっていることが分かりました。また内部に展示されていた平和維持のための物品、後世に平和を訴えていく物品を間近に見ることができ、いい経験をすることができました。



☆戦争に対する意識の違いとエノラゲイ

 宮崎駿監督が「風立ちぬ」という映画を製作しました。この映画の中心となっているのはゼロ戦です。そのゼロ戦が、ワシントンDCの国立航空宇宙博物館に展示されていました。第2次世界大戦時に最強を誇るアメリカもゼロ戦からは逃げることを指示しました。それほど恐れられていたゼロ戦。なぜアメリカほど技術のある国が日本のゼロ戦を恐れたのでしょう。その疑問は添乗員さんの話によって簡単に解決されました。
 ゼロ戦が恐れられた理由は軽量設計のため急な方向転換が可能だからです。日本は中に乗っている人の安全より敵を倒すことを優先しています。戦闘機の後ろにある板はベニヤ板を使用しています。それに比べアメリカは中の人を守るため鉄板を使用しています。日本は「お国のために死ぬのは名誉だ」と国民に言っていました。つまり日本は人の命を兵器にしていました。
 戦争の最後になってくるとプロペラのない戦闘機や翼のない戦闘機で敵の戦闘機に突っ込む戦法を取っていました。あくまで僕の見解ですが、日本とアメリカでは兵器の量で差がありました。しかし兵器の量で差があっても人命を兵器として消耗するものとして扱ったことも敗因のひとつではないのでしょうか。
 また国立航空宇宙博物館の別館にはB29、あのエノラゲイも展示されていました。日本人にとっては広島に原爆を落とした惨たらしい戦闘機です。銀ぴかのボディは周りの戦闘機より大きく目を引きます。その銀ぴかの機体には黒字で「エノラゲイ」という文字が記されていました。このエノラゲイという文字は日本に戻った今も僕の脳裏に焼きついています。
 エノラゲイはただの戦闘機ならそこまで惨たらしいことはないと思います。しかし、原爆を落としたので惨たらしい戦闘機です。
アメリカでは原爆を落とすことは戦争を終わらせるために必要とされていました。何年か前、エノラゲイの元搭乗員が、もし当時と全く同じような状況になり、必要とされるのならまた広島に原爆を落とすだろうとのニュースが報じられたのを覚えています。これを聞いて僕はショックを受けました。
 しかし同時に、まだ日本は世界に原爆の恐ろしさを伝えることができていないのではないか、とも思いました。原爆が落とされてから70年近く経ちました。もう原爆の恐ろしさを身をもって体感した方も数少なくなってきました。これから先原爆の恐ろしさを風化させるようなことはあってはなりません。僕たちの世代が原爆の恐ろしさを受け継ぐために、世界に原爆の恐ろしさを発信していかなければならないと実感しました。



大日方 慶樹  (西部中学校/中3・長野市)

☆国際連合と平和

 最初に建物を見たとき、非常に感銘を受けた。歴史や公民の教科書の国連は隅の小さい挿絵の中。でも今はすべてを押しのけて視界の中いっぱいに広がっている。国連を案内してくれたスタッフが一番最初にこう案内した。「ここはアメリカのニューヨークではありません。193か国の中です」
各会議室をのぞいた。自分が見たどの会議室にも共通していたのは、椅子にチャンネルがついているということ。会議室の隅に設けられている通訳席で各国の言葉が通訳され、そのチャンネルを通して自分の聞きたい言語が聞けるのだという。193か国が集まる国連では6カ国語の公用語が定めてある。完全に世界の職場であった。
 そして国連の平和維持活動ブース。世界には明日のごはんが食べられるかわからない貧しい人々がいる。それも世界人口の7分の1、10億人。彼らは難民とよばれ、その難民たちを救うため、国連の方々が命を懸けて働いている。
ノート、文房具などが詰まったアタッシェケースが置いてあり、その上には子供たちが笑顔でそのノートを手にしている写真が。子供に教育を受けさせるというのは世界ではまだ当たり前になっているとは言えず、安全も保障されてないそうだ。その安全のために国連では平和維持活動を行っており、地雷撤去などを行っている。だが、毎年死者は絶えないそうだ。未来の平和のために命をかけて彼らは作業しているのだ。
 同じ国際連合に加盟している国、同じ地球に住んでいる国なのに、その国は飢餓で苦しんでいる、またある国では紛争が絶えない、そして国連にはそれらの国の元首がお互い席について会議をする。どうしてそこで彼らはお互い解決できずに問題を引っ張ってしまうのだろう。どうしてそれでいて罪のない子供たちが飢えて病気にならなければならないのだろう。これからは僕らが背負う時代。なにができるのか、なにをしなければならないのか、自分が歩む人生の中で見つけていきたいと思う。ただあの日の国連本部はとても平和だった。


☆newseumと記者の精神

 記者たちの世界はとてもすごい世界だった。共同通信社の記者に「もしあなたの前に血だらけの人がいたらどうしますか。」と質問した。すると「その場面の写真を撮ってから、その人を助けます」。そう答えた。それほど取材は大事なのか。すこしクエスチョンマークが浮かんだ。だがその答えはnewseumにあった。
 穴だらけのトラックを見たとき、たくさん並べられた亡くなった記者の写真を見たとき息が詰まりそうになった。生々しいあのトラックは、あの写真は、自分にとって衝撃的過ぎた。
 路上で交戦中、周りにたくさん倒れている人もいる中でカメラを構える記者の写真。その前にはヘルメット、防弾チョッキ、パソコン、カメラ。今は亡き記者が戦場で直前まで所持していたものだ。パソコンには銃の上に禁止マークがついたステッカーが貼ってあった。その記者は現地から我々に何を伝えたかったのだろうか。
 そして、最近亡くなった日本人の山本美香記者の写真があった。彼女も先ほどの記者と同様、命を懸けて戦場の取材を続けたが銃撃されて亡くなった。2人とも自分の命に代えてまで伝えたかったことがきっとあるはず。でも、そんな記者たちが亡くなるのは理不尽な気もする。
 その後、国連の方に彼らの安全は保障できないのか聞いてみた。答えは不可能。国連の職員もただでさえ危険な作業をしている中、他人を守ることなんてほぼ無理に近いからだ。確かにうなずける理由だった。世界の人たちにそういう現実があることをぜひ知ってほしい。
 newseumを覗いてマスメディア、記者たちの精神がよくわかったような気がした。世界中の人々に命をかけて真実を伝える。僕たちはそのメッセージを受け取って、考えていかなければならない。戦場でカメラを命よりも大事に持ち続けた記者たちのメッセージ、そのメッセージが全世界に伝わってほしいと思う。



松本 千里  (高山中学校/中3・高山村)

☆戦争という狂気

 国立航空宇宙博物館はライト兄弟の飛行機からスペースシャトルまで展示している博物館です。飛行機の歴史とは戦争の技術の進歩-。そんな事実を表すかのように戦闘機の多さに驚きます。
各国の戦闘機のまん中にひときわ大きい重厚な機体がエノラ・ゲイです。B29の中でも原爆を落とした機体をわざわざ展示するのは、見る者にその意味を考えさせるためなのでしょう。
 そして、日本のゼロ戦。限界まで装甲を薄くして武器を軽量化した当時、世界一の機動性能を獲得した機体です。
 日本人の勤勉さと技術の吸収と展開の素晴らしさの例ではありますが、機能が他国機より優れている間はともかく、機体が軽いことは脆いことでもあるので搭乗者の命と引き換えにして得た性能なのかなと思いました。そして、ゼロ戦の脇にある「桜花」は帰りの燃料を積めない特攻機です。
 当時の相手国が恐れたのはこのような狂気だったのでしょう。そして一度に何万という殺傷能力がある原爆を落としたのも狂気だと思います。戦争とは、狂気と狂気のぶつかり合いだと思い知らされます。
 今回博物館で見た戦闘機の実物は、戦争の記憶を私たちに伝えてくれるものでした。
 また、当時の誇りと技術の集大成である機体は美しくもあります。しかし同時に、こうした戦争のハードである兵器よりも、ソフトである人間の平和を求める心や、大局を冷静に考えられる力がより重要で、人間がハードの一部になってはいけないのだと思いました。
 今回の旅の中で、アメリカと日本の違いも多く目にしましたが、同じところもたくさんありました。それぞれの国がそれぞれの誇りと痛みを理解してゆくことで戦争という狂気は避けられるのだと思います。



☆スーパーで見た果物の日米比較

 ワシントンDCに着いた日、ホテル近くの「SAFEWAY」というスーパーマーケットに行きました。私の家はリンゴとブドウを栽培しているので、アメリカでこうした果物がどう売られているのか興味があった訪問先です。
 店内ではORGANIC(有機栽培)の文字が目につきます。BSE問題や遺伝子組み換え作物、大規模栽培で使われる農薬の問題から、食の安全についての意識が高いのでしょうか。
 果物は山積みで売られていました。ブドウは「Seedless Table Grape」と書かれた赤、緑の2種、リンゴは「Granny Smith」と書かれた青リンゴだけで、ほとんどが1ポンド(454グラム)単位で売られ、有機栽培ブドウは3ドル99セントでした。
 食べてみると、ブドウは非常に甘みが強いものの、香りはなく、ポリっとした食感。リンゴは逆に酸っぱくてシャリシャリしています。焼いてアップルパイにすることが多いそうです。
 摘粒の跡がないブドウや着色の心配のない青リンゴを見ると、大規模に生産でき、病気や害虫に強い品種だけが売られているのかもしれません。
 正直な感想としては、バリエーションが少なく、日本の方がいろいろな味が楽しめる印象です。生食よりジュースやドライフルーツなどの加工品の方が多くの種類が売られていました。
 さらに巨峰のような香りはワインに合わず、あまり好まれないそうです。
 この取材を通じて、私は日本のリンゴやブドウは独自の文化だと感じました。甘み、酸味、香りのバランス。そして美しさを追求してきたことで、今の日本の果物があると思います。日本人らしい努力の結晶です。携帯電話のようにガラパゴスと言われるかもしれませんが、感性と知恵を五感に訴えるものは文化であり、誇るべきだと思います。おいしいものはやっぱりおいしいのですから。
 日本の果物の素晴らしさが世界中にもっと知られるようになってほしいと思います。


小山 奈乃実  (上田第二中学校/中2・上田市)

☆アメリカって とってもフレンドリー

 いよいよ入国ゲートが近づいてきました。審査では、時間がとてもかかることや怖い審査官がいると聞いていたので、少しドキドキしていました。
自分の番が来ました。「Hello」にこやかに挨拶すると優しく相手も答えてくれました。それがきっかけで、不安がなくなり、スラスラと受け答えができました。気づいたら、誰よりも最初に終わっていました。やった〜〜〜一番乗りと思いました。
 ホテルでのこと。部屋のシャンプーが少なくなったのでフロントに話に行きました。そのとき、係員の女性が、話しかけてきました。
何を言っているのか初めはわからなかったのですが、ジェスチャーをしてくれました。私の上着がリバーシブル!?だったのです。恥ずかしかったけれど、伝えてもらって嬉しかったです。
別の時にも、お客さんが話しかけてくれました。「今日、東京に帰りますか」と尋ねてきました。なので、わたしは英語で「I am going to go to NewYork」(ニューヨークに行きます)と答えることができました。「Enjoy your stay」(楽しい滞在を)とニコニコしてくれて、自分の英語が通じてまたまた嬉しかったです。
 一番心に残ったことは、ガールスカウトのみなさんとの交流です。初対面だし言語も違うので、最初は話しかけづらかったったのですが、「一緒に遊ぼう」と言ってくれたので距離が無くなり、仲良くなれました。
水風船の投げっこは、とても盛り上がりました。服が、びしょびしょになったけど、簡単な英語でいっぱい遊ぶことが出来たので本当に楽しかったです。
そして、雨が降ってきたので室内へ。私は「カントリーロード」の歌詞とイラストを描いて用意していました。ギターも弾いて一緒に歌えてよかったです。
 この旅行で、アメリカの人達はフレンドリーな人がたくさんいて、自分から心を開けば、すぐに仲よくなれることが分かりました。




☆日本の漫画 ニューヨークでは

 今回、私がアメリカに来た目的のひとつは、日本のアニメや漫画がアメリカでどのくらいの人気があり、どう評価されているのかを調べるということだ。ニューヨークの5番街で取材した。
 ニューヨークには日本の書店も出店している。日本の漫画だけが並ぶフロアもあり、驚いた。英訳されたものや日本語のものまで、さまざまなジャンルの漫画がところ狭しと並んでいた。
 早速、インタビューした。少女漫画のコーナーにいたリストさんは16歳の女の子。ノルウェー在住で、アメリカにいる兄弟の家に夏休みを利用して遊びに来たそうだ。
 「日本の漫画はどうですか」と質問すると、「マンガだいすきよ。おもしろい」と日本語で答えてくれた。
 「どうして日本語が上手なんですか」と尋ねると、日本のアニメの英語字幕を見ながら日本語のセリフを聴き、独学で勉強したとのことだった。漫画やアニメを語学の勉強に役立っていると知り、とても感心した。
 次に、人気漫画「ONE PIECE(ワンピース」」のコーナーにいた16歳の女の子アニーさんに「どのくらい本を持っていますか?」と質問した。アニーさんは、たくさんの本を持っていますが、それは電子書籍だそうだ。しかし、単行本が好きで本屋さんにもよく来ると話していた。
 その日はちょうどアニーさんの誕生日。彼女は、母親とともにバスを2時間半乗り継いでニューヨークの書店に来た。漫画をプレゼントに買ってもらうと聞き。思わず、拍手してお祝いした。
 この取材で、日本の漫画・アニメが、アメリカでもすごく人気なことが分かった。実際に生の声を聞けて本当に良かった。

細谷 夢子  (中込中学校/中3・佐久市)

☆9・11への思い

 今回の取材で特に印象に残ったのは、9・11のお話だ。
今回のお話を聞くまで、私は9・11についてあまり深く考えたことがなかった。「テロなんて怖いな」「大変な事件だったな」とは思っても、どこか人ごとのように感じていた。でもお話を聞いた時、涙が止まらなかった。
 日系人によって建築され、人権の生きた証といわれたビルは数十秒で崩壊し、辺り一面ビルの粉塵に覆われたそうだ。そんな中、毎日毎日救助活動が続いたという。同志の消防士達や知り合いの訃報を聞いて悲しくても、救助を続けなければならなかったブレンダさんの辛さを思うと胸が痛む。1人も生存者を見つけられなかったなんて…。
 本当は思い出したくない辛いことのはずなのに、こうして活動するブランダさんやイエルビさんは強い人だ。本当の辛さを知らない私が分かったように泣いて良いものか、とも考えたけれど、ブレンダさんが涙ながらに語ってくれるのを見た時、この想いは絶対に伝えていかなければならないな、と確信した。
 リー・イエルビさんは"明日のために"ということを何度も言っていた。9・11で多くの人が、本人だけでなく家族、友人、本当にたくさんの人が悲しみを味わった。私たちは自分のやりたいことをしっかりとやり、あの悲しみを忘れずに伝えていかなくてはならないのだと。そのためには「教育」が大事だという。私も同感だ。実際には宗教の違いやそれによる考え方の違い、などが大きく関わっていて、単純には解決できない。でも、テロや殺人がどれだけ残酷なことか、どれだけの悲しみを生んでしまうかは、教育で伝えるしかないと思う。9・11のような悲しみを決して忘れず語り継ぐためにも、教育が大事だろう。私達にできることは小さいけれど"明日をより良く"していくために今できることで協力していきたい。
 また、イエルビさんはこんな話もしていた。「テロリストたちを憎むのは簡単だった。でも憎んだら、テロと同じだと気付いた」と。人を赦すことは決して簡単ではない。しかし、憎しみを捨て許し合うことが、同じ悲しみを繰り返さないための道なのだろう。
 9・11の話を聞いて想像してみた。日々世界中で起きている内戦、そして戦争のこと。それらは一体どれほどの悲しみを生むのだろうかと。こんなにも心が痛いとは知らずにいた自分が情けなかったし、それを思うと余計涙が出てきた。この気持ちと9・11のお話は決して忘れない。
 最後に1つ、気になったことがある。憎むのは良くないと言いつつも、ウサマ・ビンラディンが米軍によって殺されたこと、それに伴い新たな犠牲者が出たことについては仕方がないというような言い方だった。当事者でないから言えることかもしれないが、報復に報復を重ねることは、新たな悲劇を生むだけなのではないだろうか。


ホワイトハウス前で反核を訴え

 ホワイトハウスの前に目を引くテントがあった。そこにいる1人の女性を取材した。彼女の名前はコンセプション・ピシオットさん。そこで30年以上も核兵器廃絶を訴え続けている。警察に逮捕されたことも何度もあったそうだ。
 テントの横には広島と長崎の原爆被害の写真もあった。手当てを待つ人々、ぼうぜんとした表情で赤ちゃんにおっぱいを飲ませるお母さん…。
 ピシオットさんは核兵器だけでなく、原子力発電にも反対の立場だ。日本については「あんな原発事故があったのだから、核というものすべてに反対するべきだ」と語った。核兵器廃絶を口で言うのは簡単だが、ほぼ365日?時間、30年以上にわたって訴え続ける覚悟は並大抵ではない。彼女の何事にも屈しない心と信念に圧倒された。
 国連は、オバマ大統領が核なき世界を目指していることもあり、核兵器削減は進めている。一方、原子力発電は平和的利用との位置付けだ。しかし、福島やチェルノブイリで実際に事故が起きている。
 この取材旅行では、広島に原爆を落としたエノラ・ゲイとも対面した。原爆がどれだけの被害をもたらしたかという説明は博物館になかった。原爆投下を正当化し、戦争を終わらせるために仕方なかったというのだろうか…。
 今回、原爆を落とした側のアメリカ人にも異なる考えの人がいることが分かった。もっと英語を勉強し、多くの人により深く意見を聞き、自分の考えを深めていきたい。


アイリーン・ヒラノさんへの取材に思う

 アイリーンヒラノさんへの取材では、意外なことが分かった。
日系アメリカ人は第2次世界大戦で日本との戦争が始まると、強制収容所に入れられた。アイリーンさんもその子孫であるから、アメリカにあまり良い印象を持っていないと思っていた。
 けれど、それは全くの勘違いだったようだ。アイリーンさんから伝わってきたのは、"アメリカが好き"という気持ちだった。「過去にそういった(強制収容)出来事はあったけれど、それは昔のことだしきちんと謝罪もしてくれた」からだという。
 また、日系人であっても日本を好きではない人がいると聞いていたので、それについても質問した。すると「それは日本を知らないから。日本に行けば、良さが分かると思う。私もそうだった」と話されていた。日本人としてうれしいことだ。
 だが、アイリーンさんのように日米間の架け橋として行動する日系人ばかりではないことも事実だろう。アイリーンさんは、日系人は純アメリカ人として育てられるとおっしゃていた。だからこそ、日系人や戦争について考える時は、日本とアメリカ双方の立場から物事を捉える必要があると思った。機会があれば、日本に対してアイリーン氏とは異なる意見を持つ日系人にも話を聞いてみたい。
 アメリカに行って思ったのは国旗が多いということだ。空港、ホテル、バスに至まで色々なところで見かけた。これがいわゆる愛国心ではないだろうか。ただ、アイリーンさんからも感じたように、アメリカ人は皆アメリカが大好きなんだと思う。自由の国アメリカ。私も日本の良い所探しをしてみたくなった。



土川 拓樹  (梓川中学校/中2・松本市)

☆トリビュートWTCビジターセンター

 米同時多発テロの犠牲者を追悼するトリビュートWTCビジターセンター。2階建ての狭い建物の中に、数々の遺品や写真などが展示されている。
 突っ込んだ飛行機の窓枠や、折れ曲がった鉄のスプーン、歪んだ携帯電話などの日常品。すべてが生々しい。階段には日本からのおびただしい数の千羽鶴が飾られていて、決してアメリカだけの出来事ではないことを物語っている。
 センター内には行方不明者の写真も公開されており、12年経った今もテロ事件が終わっていないことがわかる。当時の写真を見ていると吸い込まれるようで、不思議と自分が体験したかのような時間がとまったかのような変な感覚に陥る。
 数々の展示品のなかでも父親が見つけたという息子のボロボロに裂けた消防士の服はとても目に焼きついている。自らを犠牲にし、救助に向かったときの彼の心境を考えるといたたまれなく胸が熱くなった。
 このとき亡くなった消防士の父親、リー・イエルピさんは「また、あのような事件がいつ起きるかわからないし自分がいつ死ぬのかわからないから、明日という日を大切にする。多くの憎しみを何かポジテイブなものに変えていくことが大事」だと語った。
 憎しみを許さない心があのような事件を巻き起こす。テロリストを憎むことや恨むことは簡単だが僕たちまで憎んだらテロリストと同じだ。憎むことで事件を繰り返す。
 リー・ウエルピさんのお話のようにポジテイブな心で明日という日をすばらしいものにするために、自分のやりたいことに集中して毎日を過ごす。
 そしていろいろな所に行ってもっと世界を見たいと思った。


☆国連の仕事

 高さ153.9メートル39階建て。90度に見上げてもすべてが視界に入らないほどの高層ビルの国連本部。加盟国の国旗がずらっと整列し、さすが世界の本部という風格を醸し出している。
 そして、入り口では日本では考えられない厳重なセキュリテイチェックを通り、いざ安全保障理事会の会議室へ。ここが世界の平和と安全保障に関する決議を専門に扱っている場所なのだと感動しながら、僕の取材テーマである、国連で働く人々は本気で世界を平和にしようとしているのか?だとしたらどんな活動をしているのか?について国連本部で働く韓国人女性と共同通信ニューヨーク支局で働くショーナ・マギーさんに聞いてみた。
 国連では大量破壊兵器の拡散を防いだり、様々なことに対しての支援や援助に取り組み、多くの人に情報を伝えることで紛争解決のための手段を提供しているという。よって国連は直接平和を強制することはできない。
 ショーナ・マギーさんは平和を願いいつも記事を書いている。その内容が多くの人々に伝わって、読んだ人がポジテイブな考えになってくれたらうれしいと語った。「世界を平和にするために今、僕たちにできることは何か」と尋ねると、世界の一員として自分たちが知り得た悲惨な事件などの知識をより多くの人たちに教えてあげることだという。
 紛争が多く生活に困っている子供たちと「友達になる」、次世代の人々に「教育する」、悲惨な事件を受け止め「理解する」。この3つが必要だと教えてくれた。

☆同世代とダンスで交流

 取材のほかに楽しみにしていたことがある。それはダンスの本場アメリカで踊ることだ。ダンスが盛んなアメリカは僕の憧れでもある。ワシントンD.Cでは同世代のガールスカウトとの交流会があった。
 慣れない英語とジェスチャーで打ち解けていくうちに、ダンスの話題に触れたのでチャンスと思い踊ってみた。するとダンスを習っているわけでもないのに、今流行のハーレムシェイクでのってきてくれた!
 ハーレムシェイクとは、肩や腰を振って自由に踊るニューヨーク生まれのダンスだ。さすがアメリカびっくり!! ノリが違う。言葉が通じなくても、ダンスを一緒にしたことでその場の空気が一変して、より一層分かり合えた気がした。
 やっぱり僕はダンスが好きなんだとあらためて気づかされた。また、遊びの大胆さや自己主張の強さ、そのほかにも取材に協力してくれた皆さんが口をそええて言っていたポジティブな考え方を持っていることなど日本人との違いもわかった。
 そして、何よりアメリカ国旗の多さに驚かされた。道路脇、ビルやお店の中などいたるところで見ることができた。自分の国を誇りに思っている、そんな人々やアメリカという国にますます興味が湧いた。

ルジチカ イザベラ  (清水中学校/中3・松本市)

☆国連で考えた食料問題

 8月1日、私たち学生記者は、ニューヨークにある国連本部を訪れた。国連では様々な問題について話し合っているが、その中で環境問題、特に食料問題に興味を持った。
 国連には、WFP(World Food Program)という食料支援機関がある。この機関は、飢餓と貧困のない世界を目指すことを目標に1961年に設立された。戦争や内戦、自然災害等が起きた際には、その地域に食料を届けて命を救い、その後も食料を用いて生活の復興を助ける。例えば今は戦闘が続いているシリアで、国内各地に逃れた人々や、周辺の国に逃れたシリア難民に、緊急食料支援を実施している。
 また、学校給食を通して、十分な食料を得られない子供達を助ける、「レッドカップキャンペーン」という活動も行っている。この活動では、WFPが途上国の学校へ行き、子供たちの未来への希望を表す赤いコップで給食を配っている。でも、1人コップ1杯なのだ。私達が食べている給食とは、量も内容もかなり違う。
 今回アメリカに行って、食事がものすごい量だったということが、強く印象に残った。どうがんばっても食べきれない量の食事が出る国がある中で、多くの人が飢餓に苦しんでいる国があるのは、おかしい。食料問題以前の問題で、先進国が必要以上に大量に消費しているだけだ、と思ってしまった。
 そうはいっても、地球温暖化や人口増加により、近い将来、世界中で食料不足が今より深刻な問題になると言われている。国連では、その解決策として、例えば昆虫を食べたり、寒暖の差や乾燥に強く、栄養価に優れる「キヌア」という穀物を食べたりすることを考えている。キヌアは、アンデス地方で栽培されていて、その並外れた栄養価はNASAでも宇宙食として注目されているそうだ。
 今年、2013年は国連が制定した「国際キヌア年」で、国際的な認知度の拡大が期待されている。日本ではキヌアの知名度はまだ低いが、アメリカでは健康食品として人気が出てきている。ヨーロッパではキヌア入りのパスタやチョコレートも販売されているそうだ。将来、温暖化で農作物を育てるのが困難になっても栽培できる、栄養価が極めて高い食品として注目されている。
 しかし、国連に詳しいジャーナリストのショーナ マギーさんは、将来の食料問題の解決策について、「まず私たちがするべき事は、残食を減らすことだ。」とおっしゃっていた。本当にその通りだと思う。今でも食料が足りていない9億人の人々にこれ以上我慢しろと言ってもどうしようもない。先進国に住んでいる私達が努力して、無駄に消費する生活を変えていかないと、将来の食料問題は解決しないと思った。



◎日系人の暮らし

1941年の真珠湾攻撃は、米国に住む何の罪もない日系人の生活を一変させた。私は、米国生まれで結婚を機に松本市に移り住んだ日系3世の渡辺アイリーンさんを取材し、強制収容所に入れられたご両親の話を聞いた。渡辺さんは父の知り合いだが、私たちが米国派遣で取材したアイリーン・ヒラノさんと面識があると知り、驚いた。
 第2次世界大戦が始まったころ、ロサンゼルスにいた渡辺さんの父親のマサオさん、母親のツエさんはクリーニング店を開き、新しい生活を始めようとしていた。しかし、開店して間もなく日本が真珠湾を攻撃。スーツケースに詰められる物だけ持ち、48時間以内に家を出て行かなければならなくなった。収容所に持っていけない物は、とても安い値段で売り払わざるを得なかったという。
 そして、どこへ行くかも知らされないまま汽車に乗り、鉄条網が張り巡らされた強制収容所に連れて行かれた。カリフォルニア州にあるマンザナール収容所だ。土の床のバラックに住み、シャワーやトイレは共同で仕切りもなく、食事もひどかったという。妊娠中だったツエさんは何も対応してもらえず、子どもを無事に出産できなかった。「母はこのことを悔やみ続けていた」と渡辺さんは話す。そして終戦後の46年、渡辺さんが誕生した。
 終戦から40年以上たった88年、米国政府は強制収容は重大な誤りだったと謝罪し、収容所にいたことを証明できる人に1人2万ドルの賠償金を払った。だが、収容所にいた多くの日系1世はその時、既に亡くなっていた。
 私たちが米国で取材したヒラノさんは、こうした苦難の歴史を伝えようとロサンゼルスに建てられた「全米日系人博物館」の初代館長を20年間務めた。いまは民間の非営利団体「米日カウンシル」の代表として「トモダチ・イニシアチブ」に取り組んでいる。
 これは東日本大震災の復興支援から生まれた活動で、日米の若い「トモダチ世代」が教育や文化交流などで友好を深め、若いリーダーを育てる官民の試みだ。昨年は、東北出身の学生約500人が米国を訪れ、友情をはぐくんだ。
 ヒラノさんは、親世代の受けた苦難を理由に米国を憎むのではなく、歴史を伝え、日米両国の若い「トモダチ世代」に未来への希望を託していると感じた。そして、私たちも「トモダチ世代」なのだ。
 日米にとどまらず、世界中の国々と良い関係をつくるために、世界中の若い人たちがお互いを理解し「トモダチ」になることが必要だ。今回の米国派遣で現地のガールスカウトと仲良くなったことも、こうした活動につながるはずだ。世界中にトモダチの輪を広げていきたい。


西本 茉衣  (下諏訪中学校/中3・下諏訪町)

☆エノラ・ゲイから学ぶこと

 アメリカに到着して初めに訪れた場所が、「国立航空宇宙博物館」だ。スミソニアン博物館群のひとつでもあるそこには、ロケットやたくさんの飛行機、宇宙船などが所狭しと並べられており、あまり興味の無かった私でも本当にワクワクした。
また、驚いたのが、飛行機の一機一機に名前や意味があるということ。すべての飛行機にあるというのだから、すごいことだと思う。誰もが一度は見てみたいような、有名な飛行機もたくさんあった。
 また別館には、「エノラ・ゲイ」も展示されていた。エノラ・ゲイはB-29ともいわれ、広島県や長崎県に原子爆弾を投下したことで知られている。そこで私は、エノラ・ゲイについての説明書きに注目した。そこには「1945年8月6日 日本の広島での戦闘で初めて原子爆弾を投下」と書かれていた。広島への原爆投下では十数万人の日本人が命を落とした。なのに、この説明書きには、そのことが記載されていなかった。こんなにもたくさんの命が失われているのに、記載されていないことにとても驚いた。
 しかし、アメリカ人も日本人も、この戦争があったことを受け止め、二度と繰り返さないようにしようと考えていると思う。文化や考え方の違いはそれぞれあるが、一番大切にしなければいけないことは、人として同じ考えだろう。


☆昨日の悲しみを、明日の喜びに。

 アメリカ派遣の最終日、私たちは「Tribute WTC Visitor Center」という場所を訪れた。ニューヨークで2001年の9月11日に起きた、同時多発テロのメモリアルだ。被災者や被災者の家族などの体験や意見をもとにしてつくられたそこには、ネットだけでは知ることができない思いがたくさんあった。
 その時の映像やガラスの破片、熱や圧力でねじれた鉄骨。救助に行った消防士の焼けた消防服。テロの悲惨さをあらわす当時の写真。亡くなった方のたくさんの笑顔。こんなテロが本当に起きたのかと思うと、悲しく、胸が苦しくなった。
 この事件で救助に行き、亡くなられた息子さんを持つ、リー・イエルピさんのお話を聞いた。彼は、息子さんの命を奪った犯人を本当に、本気で憎んだという。それは当たり前のことだろう。私だって、自分の家族が亡くなったとしたら、どれだけ憎んでも足りないくらい犯人を憎むと思う。でも彼は、「それは犯人と同罪だ」と話していた。「憎しみの気持ちを前向きな気持ちに」しているというのだ。それは簡単にできることでは無いだろう。彼がどんな気持ちなのか考えると、私はただうなずくことしかできなかった。
 でも彼は、力強く、一言一言に思いを込めて、テロのことを知らない私たちに語ってくれた。「二度と同じことを繰り返してはいけない。このテロを忘れてはいけない」という思いは、私たちも同じだ。彼は「語り継ぐ」ということで自分の思いを伝えている。だから私たちも、1人1人が、自分なりのやり方で、思いを伝え、時が経っても忘れられないようにすることが、私たちに出来ることではないだろうか。 



佐藤 奏光  (諏訪南中学校/中3・諏訪市)

▽9・11 よりよい世界を作るために

 8月2日金曜日、私たちはトリビュートWTCビジターセンターへ取材に行った。そこで、当時消防士として救助活動を行っていたブレンダ・バーグマンさんとこの、テロで大切な家族を失ったリー・イエルピさんのお話を聞いた。
 そのお話の中で私は9.11に起きたこの悲劇を次の世代へできるだけ正確に伝え平和についてちゃんと教育していかなければならないと強く感じ、同時に今を生きていられることが当たり前になっている自分に気付いた。
ブレンダさんに、「今、世界は平和だと思いますか?」と尋ねると、「とても、難しい質問です....。」と少し考えてから、「アメリカ人の中でも意見が分かれます。ただ、今の状態より少しでも良くしていきたい。」と答えた。また、「テロリストも誰も傷つくことなくテロリストが無くなることはできると思いますか?」と尋ねると、「簡単なことではないです。ただ、アメリカ人全員が攻撃に賛成しているわけではないです。アメリカを敵視している国の中で、きちんとした教育を受けられず善悪の区別をつけられない人たちの勘違いや誤解によって争いが繰り返されます。それが無くならない限り難しいままです」と答えた。
 リーさんは、「9.11は憎しみや無知、人を許さない心が起こした悲劇です。私たち遺族がテロリストを憎むことは簡単です。しかし、それはテロリストがしていることと同じです。だから、私たちは憎しみをポジティブに変えることにしました。昨日の悲しみを、明日の喜びに変えるために。皆さんの力で明日をよりよくしてください。そうすれば世界は変わるでしょう」と言った。本当にその通りだと思った。
 この、戦争やテロという人類最大の過ちをただの過ちとして繰り返すのではなく、それにより犠牲になってしまったたくさんの人たちのためにもたくさんのことを学び私たちの世代で平和な世界を作っていかなければならない。
 9.11メモリアルに行けなかったことは、本当に残念ですが現地の空気を感じることができ、本当に良かったと思う。
私たちの世代でこの世界を変えてより良い世界を作っていかなければならないと感じた。そのために自分から変えていこうと思った。
すべてのことに、感謝しこれから生きていきたい。



飯島 みこと  (大鹿中学校/中1・大鹿村)

▽国連本部を訪れてA

 国連本部を見た瞬間、私はワァと声をあげた。
 高層ビルのまわりに立ち並ぶ国連加盟国の国旗。193もの旗が立ち並んでいてとても目をひく。その国連本部の中へ入り、仕組みなどを聞いてきた。
 ガイドさんがいろいろなことを教えてくれたが、一番私が驚いたのは国連本部の敷地はアメリカの領土ではなく国際領土だと言うことだ。国連には、国際司法裁判所もある。
私は「アメリカの領土ではなく、193ヶ国の国の領土なんてすごい」と思った。他にも、いろんな話し合いをするところへ行って、どんな話し合いをするかなどを教えてもらった。
 国連本部には戦争の絵や、原爆で被爆した像など、たくさんのものがあった。世界をより良くするために、193カ国が努力をしていることが、とても感じられた。外景と同じく中もすごいと私は感じた。

▽手書きの新聞が伝えるもの

 ワシントンDCにあるニュージアムで、私が絶対に見ると決めていたことがある。それは2年前の東日本大震災の2日後に発刊された、手づくりの石巻日日新聞だ。
 ニュージアムには、世界中の新聞が集められている。その中には、9・11の同時多発テロやベルリンの壁もある。9・11など世界中を悲しみに落とした事件といっしょに展示されている、東日本大震災のライフラインも回復していない時に作られた新聞に興味を持った。
 石巻日日新聞は少し離れたところにあり、ショーケースに飾られていた。その新聞をみたとき、私はただ単に「すごい」という言葉しか出てこなかった。新聞の日付は3月13日。地震や津波におそわれてたった2日後だ。その中、この新聞を作った人のプロの意識は本当にすごいことだと感じた。
 手作りの石巻日日新聞がニュージアムで展示されていたこと。その意味は、おそらく東日本大震災を忘れないためだと私は思う。
実際、私も2年前に比べ東北に対する関心はうすれている。ニュージアムにある石巻日日新聞は、今でもあの時のことを私達に知らせている存在だと私は思った。



宮澤 小春  (長野高校/高1・長野市)

☆NEWSEUMとジャーナリズムの神髄

 NEWSEUMはワシントンDCにあるニュースとジャーナリズムの博物館だ。その日の世界中の新聞約80紙が展示されていて、現在の世界で何がどのように報道されているかが分かる。
また、16世紀から現代までの歴史的事件を伝えた新聞の紙面や報道写真も展示されており、日本に関係した出来事では、真珠湾攻撃、原爆投下、東日本大震災などを伝える新聞があった。
 1990年のベルリンの壁の崩壊や2001年の米中枢同時テロなどのコーナーや、ジャーナリストの役割を伝える4D映画もあり、出来事を同時代の人に知らせるだけでなく、後世の人に伝えることもジャーナリズムの大きな役割だと感じた。
 このニュージアムの印象を、見学をしていた母子にインタビューした。
母親のカレス=スレッドギルさん(47)は、「メディアが歴史をどのようにして変えたか知ってほしい。今日見て知ったことを忘れないでほしい」と語った。次男のエリック君(10)は、「すごい。情報量が多く、とても収穫があった」と答えてくれた。
エリック君は、科学技術やゲームに興味があるようで、将来の夢として建築家、宇宙飛行士、発明家をあげてくれた。そんなエリック君はスミソニアン博物館はじめ、他にもいくつか博物館を見学してきたという。
 スミソニアン博物館は入館料が無料だ。スミソニアンだけでなく、ワシントンDC内の博物館のほとんどは無料で見学ができる。しかし、このNEWSUMは入館料がおよそ20ドル。なぜわざわざお金を払ってまで来たのだろうか。カレスさんに聞いてみると、「確かに有料ではあるけれど、お金を払う価値がある」と答えてくれた。
 NEWSEUMには、報道中に亡くなったジャーナリストの顔写真が壁一面に敷かれていた。命をかけて報道した人々を大切に扱う、その姿勢がジャーナリズムの真髄だと感じさせられた。



☆国立アメリカ歴史博物館と独立の精神

 ワシントンDCの2日目には国立アメリカ歴史博物館を取材した。ここではアメリカの歴史に対して事件、人物、物品の3面からアプローチされていた。建国の歴史や世界大戦、黒人解放運動など、日本でも親しみのあるテーマが詳しく説明されていたほか、戦時中の絵本や歴代大統領夫人のドレスなども展示されていた。
一番印象に残ったのは、暗室に厳重に保管されたボロボロの星条旗だった。これは巨大なもので、横12m縦9mもあった。第二次英米戦争中の1814年、ボルティモアの戦いで、マクヘンリー砦の米兵たちが、イギリス海軍との一昼夜に及ぶ激しい戦闘のさなかに掲げたものだ。翌朝船上からその星条旗を見たフランシス・スコット・キー弁護士が詩を書いた。これがのちにアメリカ国歌となった。現地でお世話になったガイドさんから、同じDCにある公文書館には独立宣言の現物が残されているが、ミサイル攻撃にも耐えることができるよう厳重に保管されているとお聞きした。
 今回の派遣であらためて驚いたのは、アメリカの国家財産のほとんどはまだ新しく、せいぜい過去250年ぐらいの時代のものだということだ。アメリカは言語や歴史を異にする様々な移民集団が作った新しい国だ。だから、そのアイデンティティーは、独立のために一緒に戦ってきたぞという精神の上に築かれるのだろう。一方、日本では、土器や土偶のように古ければ古いものほど歴史的価値が高いとされている。文化の違いを感じた。
 ジョージア州から3人の子供と来館していた母親にインタビューした。「子供によい博物館だとネットで知り、はじめて訪問した。子供たちがここで吸収した知識は、将来役に立つ」との話だった。2組の親子と話をして気がついたのは、どうやらアメリカ人にとって、この博物館の展示物は過去の遺物などではなく、将来の世代へと伝えていきたい財産であるらしいということだ。アメリカ人の親が子供たちをこの博物館に連れてくるのは、子供たちにアメリカの精神―ともに独立を勝ち取ったぞという意識―を伝えていきたいという気持ちからであるようだ。

前田 惇超  (長野西高校/高2・長野市)

☆「エノラ・ゲイ」の取材を通じて

 広島に原子爆弾を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」。アメリカの人たちは、エノラ・ゲイの展示を見て、何を思うのか、原子爆弾の投下についてどう思っているのか―。
 私は国立航空宇宙博物館に展示されているエノラ・ゲイの前で出会った、マーサ・ハリスさん(60)に話を聞くことができた。
マーサさんの義父イトロ・フェラマスカさん(故人)は、原爆投下の翌日、広島の被害状況を撮影する任務があった。
マーサさんは、甥夫婦のアダム・ハリスさん(24)、シェリル・ハリスさん(23)にその歴史を語り継ぐためにこの日、同館を訪れたという。
エノラ・ゲイについてマーサさんは、「エノラ・ゲイは戦争を悲劇に変えた。二度と起こしてはならないと思う」と語り、義父が生前、「(原子爆弾は)結果的に戦争は終わらせたが、 広島の惨状を見た時、罪のない人々と街を苦しめてしまい、悲しみでいっぱいだ」と言っていたと教えてくれた。
 エノラ・ゲイを見ていると、当時の素晴らしい技術が分かる。その技術もひとたび戦争に使われると悲劇になる。「エノラ・ゲイ」の機名は、戦いへの不安と孤独を抱えたパイロットが母親の名前を付けたという。被害に遭った人はもちろん、戦いへの後悔と苦しみと虚しさはどちら側の人にも残る。
マーサさんは「(原子爆弾は)当時の軍隊には必要なものだったかもしれないが、発明されなければよかった、と思う。存在すらいらない酷いことだ」と語った。
 私は、初めての取材を通じ、ハリスさんの一行に積極的に話しかけることで、教科書では学ぶことができないエピソードを、生の声で聞くことができた。原子爆弾、戦争に対するハリスさんらの思いを、私は忘れない。

☆世界で働く記者

 私たちは7月30日に共同通信ワシントン支局、8月1日にニューヨーク支局を訪ねた。新聞の国際面でよく目にする【ワシントン共同】などの記事を書いているのが共同通信社だ。
ワシントンは政治の街。ホワイトハウスやNASAなどのニュースを扱う。ワシントン支局は16人のスタッフが働いていて、記者一人一人に担当する分野が決まっている。英語記事担当者は1人だけである。
 デスクの金子さん(47)に聞いたところ、アメリカのメディアから引用する記事も多く、「どんな記事を書いたら、日本の読者に興味をもってもらえるか」という視点で情報を選び、さらに知りたいと思ったことを追加取材して記事にしているという。情報を記事にする時には、複数のメディアの同じ情報をいくつも調べ、誤報を出さないようにと細心の注意を払う。
ワシントン支局は、日本時間では深夜から明け方となる午前2~7時がちょうど午後になるため、他の支局と連携しながら、より確実な取材ができる。
ニュースを東京本社に発信するまでの時間はおよそ30分、重要なニュースは5分程度で送るという。
一方、ニューヨーク支局は、経済、文化、スポーツ中心の記事を主に書く。私の関心のあったボストンマラソン爆破事件の記事は岡坂さんが担当した。岡坂さんは、日本各地の支局でも活躍した人で、正確な記事を書くこと、伝えることの大切さと難しさを教えてくれた。
 真偽を早く見極める英語力と、アメリカのあらゆる価値観、文化をふまえて日本人に誤解のない記事を書くという記者の仕事は大変だが、とてもやりがいがあると思った。



☆敗戦の知らなかった歴史

 「申し訳ない。」の一言で頭がいっぱいになった。
 ワシントンに着いて2日目に国立アメリカ歴史博物館を訪れた。
 館内に第二次世界大戦の大きなブースがあり、入り口には、日本、ドイツ、イタリアの敗戦国の看板が展示されていた。アメリカと直接対決を行った日本は、他の2国よりもスペースが広く、私が見たことのない恐ろしい写真がいくつもあった。
 私は、日本のブースを見学していた女性フェイ・ラングさん(40)に取材をした。彼女は夫、娘、二人の息子の計五人でアメリカの歴史を詳しく知るために訪れたという。
 まず、日本のことが好きか、と聞くと、「今の友好関係の日本は好きだが、正直1945年頃の日本は嫌いだ。当時の人々、皆が全て悪い人ではなかったと思う。もちろん政府が権力を持っていたことも知っているが、当時の日本は嫌いだ。皆、そう教わって育つ」と話した。
 私が「私たちは学校で当時の日本の敗戦についてはっきり教わっていない。ここで初めて見る写真も何枚かある」と話すと、心底驚いていた。
 原子爆弾を使用したことをどう思うか聞くと、広島の投下後の写真を見て、険しい表情で「terrible thing」と呟いた。
 私がこの取材で感心したことは、子供が自国の歴史について積極的に学ぼうとしていること、そして親が学ばせようとしていることだ。彼らはどのような気持ち、姿勢で過去を受け入れているのか。日本という国をどう学んでいるのか。私たちは知るべきだと思う。ブースには、南京大虐殺や日本の飛行機が上空から爆撃する写真が掲示されていた。
 私は高校生だが、これまで第二次世界大戦はナチスというイメージで、授業でも多く扱われる。実際あの国立アメリカ歴史博物館を訪れると、日本の参戦について、自国であるのに知らないことが多すぎると分かった。また、私たちには学ぶ姿勢が足りないだけでなく、学ぶ機会が少ないと思った。
 日本人も自国が行ってしまった過ちをしっかりと見つめ直す必要があると感じた。

赤岡 あずみ  (野沢北高校/高2・佐久市)

☆トリビュートWTCビジターセンターについて

 5日目に訪れたニューヨークのトリビュートWTCビジターセンターは、9・11で亡くなった方の遺族が、米同時多発テロが発生した当時、何が起こったのかを知ってもらうために運営している施設です。
私がそこで見たものは、曲がった鉄骨やスプーン、フォーク、ボロボロになった消防士の服、行方不明になった人を捜す写真入りの張り紙など、見ていて心が痛むものばかりでした。
当時のWTCはニューヨーカーにとって愛着のある場所であっただけに、テロによる崩壊は相当なショックだったのだろうとあらためて思います。
 私たちはテロ現場で救助活動に当たったブレンダバークマンさんのお話を聞きました。彼女は救助活動を通じて250人もの仲間を失い、それでも働き続けなくはならなくてとてもつらかったと語ってくれました。
皆さんも想像してみてください。多くの友人や家族を突然失っても、悲しみに暮れる暇もなく働き続けなくてはならない辛さを。
世界にはこういった悲しみに追われる人たちがまだ何人もいます。今回ブレンダさんのお話を聞いて、私はその人たちを悲しみから救いたいと強く思いました。
 戦争のない平和な世界を作るのも、戦争の絶えない悲しみの世界を作るのも、次世代を担う私達次第です。私は戦争のない平和な世界を作りたいです。




☆アメリカ人の人柄について

 ようやくアメリカでの生活にも慣れたころ、現地のガールスカウトとの交流にあたって私にはいくつかの心配事がありました。それは話しかけられても曖昧に笑って誤魔化してしまわないだろうか、一緒に来た日本の仲間とばかり話してしまわないだろうか、というものでした。
しかし、彼女たちに会った途端にそんな心配は空のどこかへ。彼女たちの積極的で明るい性格や素敵な笑顔につられ、気付いたら一緒に水風船で遊んだり、ダンスをしたりしていました。
 私は今まで、アメリカ人は素っ気なく、がさつな人たちばかりだと思っていました。しかし、実際アメリカに行って現地の方と関わってみると、初めて会った人にも気軽に挨拶をしてくれたり、レディファーストでドアを押さえてくれたりするなど、日本ではなかなか見られない光景に何度も遭遇しました。
 私が地下鉄に乗った時、始めから電車に乗っていた年輩の男性と途中から乗ってきた若い女性が親しげに会話をしている光景も目にしました。
ガールスカウトとの交流や街中での光景によって、私のアメリカ人に対する印象は変わり、アメリカがますます好きになりました。そしてもっと英語を学んでいつかアメリカ人の友達をたくさんつくりたいと思いました。

☆旅行を終えて

 今回の学生派遣事業は、一般旅行または修学旅行でさえも実現が難しいと思われる位中身が濃く、充実した物ばかりでした。今回私達が観てきたアメリカは大国のほんの一部分にすぎませんが、その限られた中からでも大変多くの事を知る事が出来ました。
取材先で見聞した事は、私が今まで漠然と捉えてきた事柄の細部を新たに知る事が出来るものばかりでした。また取材を通して新たな知識を得たのはもちろんの事、私達が普段触れるメディアだけではわからない、話し手の表情、声の抑揚、その場の雰囲気など、相手と向き合って話を聞かなければ伝わって来ない物も多く感じ取る事ができたと思います。
 知識を得た他に、私の中で様々な気持ちの変化もありました。その中で、最も大きな変化を2つ紹介します。
 一つ目は自分の将来についてです。今まで、正直自分の将来の夢に自信が持てずにいました。けれども今回訪れた国連本部やトリビュートWTCビジターセンター、共同通信などで、私にとってとても興味深い話を沢山聞かせていただき、私が一生を懸けてでもやりたい事は、やはり世界の平和をつくる事なのだなと実感し、その道に進む事を固く決意する事が出来ました。また、現地で面会したアメリカ在住の日本人の方々から、進路に関するアドバイスなどを沢山頂いたことで、世界の平和をつくるためには様々な職業がある事、そしてそこに辿り着くまでの道は一つではないということに気付きました。
 これから進路選択について本格的に考えてゆかなければならない中で、この事は非常に貴重なものとなりました。
 二つ目はアメリカ人の人間性から学んだことです。私は今まで、アメリカ人はガサツで冷たい人種であるという偏見を持っていました。そんな中バスでの移動中、物乞いをするホームレスの人に通りすがりの通行人がサッとお金を手渡し、笑顔で軽く挨拶を交わすという場面を目撃しました。私自身も、エレベーターや街中などでアメリカ人に笑顔で挨拶をされた事がしばしばありました。私は驚きました。日本にいる時ですらなかなか遭遇しない場面に、まさかアメリカで遭遇出来るとは思ってもいなかったからです。もちろん全てのアメリカ人を見た訳ではなくて、中には私が想像していた様な人達も少なからずいるはずです。けれども今回、今まで知らなかったアメリカ人の温かい一面に触れることが出来て、心が温まりました。
 この事から、私はもっと他人に対して優しい心を持って接しようと思いました。私も含め、日本人は困っている人を見かけても見て見ぬ振りをしがちですが、これからは街中で困っている人がいたら、迷わずに声を掛けられるような人間になりたいと思いました。
 最後にこの派遣事業を企画、遂行してくださったスタッフの方々、現地で私達の安全や体調に気を遣ってくださった引率の方々に深く感謝します。そして一週間行動を共にした19人の仲間。わずか一週間とは思えないほど仲が深まり、ふざけた話をした事もあれば、将来について真剣な話をした事もありました。思わぬハプニングに出くわした時も協力して乗り越えました。出逢えて良かったと思える仲間です。本当にありがとう。
 この一週間で得たものは間違いなく私の人生の糧となるでしょう。

木次 萌  (岩村田高校/高2・佐久市)

☆ガールスカウトとの交流

 ワシントンDCでの滞在2日目に現地のガールスカウトとの交流会が開かれた。ガールスカウトとは少女と若い女性の可能性を最大限に伸ばし、責任ある世界市民となれるよう」に活動する、世界最大の社会教育運動である。日本全国にも約4万人の会員がおり、世界では約1000万人が活動している国際的な青少年集団で、野外活動、地域奉仕など様々な体験活動を通し、自らの興味や可能性を発見し力を伸ばすためのプログラムが組まれている。
 私たちは今回、メンバーの家にお邪魔し、ホームパーティ形式の交流会に参加させてもらった。
 今回の交流では、アーリントン在住のベスト加島聡子さんが案内してくれた。都会の雰囲気だった場所から家が立ち並ぶ静かな場所に入り住宅地の雰囲気を味わうことができた。
中には滑り台やブランコなどの遊具を備えている家、ツリーハウスが見受けられる家があった。20分ほどで到着すると、十数名のガールスカウトのメンバーは私たちを見つけ、「hello!!!」と駆け寄り、握手をしてくれた。
 私たちは輪になって自己紹介をし、一緒に団員の歌を歌った。それでも緊張がほぐれない私たちにメンバーは、water balloon fighting ウォーターバルーンファイティング(水風船遊び)をしようと誘ってくれた。私たちは興味津々にメンバーにやり方を教わり水風船でキャッチボールをして、割れたら負け。という遊びをした。この遊びを通して私たちは一気に距離が縮まり、少しずつ会話が見受けられるようになった。メンバーの積極性と私たちへのホスピタリティに感動した。
 アメリカ式のバーベキューとガールスカウトクッキーを頂きながら、私たちはたくさん語り合った。言葉の壁、国の壁を越えこんなにも楽しむことができるのか。と本当にうれしい気持ちになった。
 私たちが、これからの世界を担っていく世代となる。いかに友好関係を深め、お互いを分かり合うかで平和な未来を作れるのではないだろうか。私は、「ボーダーレス」をモットーに国境を越えた関わり、繋がりを大切にしたい。



☆銃社会の米国 市民の声を聞く

 アメリカでは、3億丁の銃が出回り、毎年3万人が銃によって命を落とすと言われている。コネティカット州のサンディフック小学校では昨年12月、児童20人を含む26人が犠牲となった乱射事件も発生した。こうした中、オバマ大統領は銃規制の強化に取り組んでいるが、議会の賛同を得られず、思うように進んでいない。私はこの問題について、ニューヨークのホテルを訪れた人に賛否を聞いた。
 テキサス州在住の中学校教師ルネー・ジョーンズさん(47)は「報道で銃に関する事件を見ると悲しくなるし、心では銃規制に賛成」と話す一方、銃規制を強化しても、犯罪件数は減っていないという統計を挙げ「こうしたことを考えると銃規制には反対」とも話した。両方の意見を持ち、悩んでいることを私はとても興味深く思った。
 南カリフォルニア在住のブラッドさん(38)は「私自身は銃を持っていないが、武器を持つことはアメリカ憲法で守られている権利だと思う。家族や子どもを守るために銃は必要」と語った。一方、子供が銃を誤作動させる危険性にも触れ、「もし私が銃を持っていたら子供の目の届かないところに入れて保管しないとね」と話した。
 共同通信ニューヨーク支局長の船津靖さんにも聞いた。船津さんは「日本人の感覚なら銃規制は当然のことだが、アメリカの、特に地方に行くと身を守るために銃は必要という考えも分からなくはない」とし、「銃問題の根本には個人の自由という考えがある。それを取り上げるのは難しい」と話してくれた。
 今回の取材で、多くのアメリカ人が銃に対して真剣に向き合っていると分かった。私は「銃がなくても平和になれる、日本のように」というシンプルだが力強いメッセージを送りたい。

小川 彩那  (上田西高校/高2・軽井沢町)

☆実は身近にある国連の仕事って?

 あなたは「国連ミレニアム開発目標」を知っているだろうか?
 ミレニアム開発目標(MDGs)には8つの目標があります。これは極度の貧困を半減させることからHIV/エイズの蔓延を食い止めること、そして初等教育を完全に普及することまでさまざまです。
 これらはすべて、開発分野における国際社会共通の目標で2015 年を達成期限としています。
 例えば各学校で学校給食を提供することで極度の貧困から回避できる、また給食を食べるために学校へ通うため初等教育普及の目標にも関連する。このように2年後と迫る達成期限に向けて着々と国連の仕事は進んでいます。
 しかし、未だ達成には届いていない地域も残っています。例えば普遍的な教育を受けるのを阻むのは所得の格差であり、農村部の子供たちは都市部の子供たちよりも2倍も学校に通えない可能性が高い。さらに教育に対する社会的、文化的障壁も広く見られる。根本的な問題を解決するためには2015年という期限は時間が短すぎるという現状があります。
 この目標を達成させることは地球にいるみんなの責任だと私は思います。この取り組みを持続的に繋げるためにも、まず現状を知るべきだと考えます。
 安心安全で幸せな世界を作るために「国連ミレニアム開発目標」を達成させましょう。


☆立ち上がれ日本企業!!

 私はアメリカで、日本製のカメラ、車を多く見た。しかし今回宿泊したホテルのテレビはSONYやPanasonicなどの大手メーカーではなく、韓国製のLG社であった。
 他にも街中を歩く人のスマートフォンを見るとアップル社やサムスン社が目立っている。
 共同通信NY支局の話では「ここ数年日本製品は衰退している、車は大丈夫だが、家電が侵食されている」とのことだ。
 私が生まれる前のバブル時期は日本の企業はすごく盛り上がっていてNYのオフィスビルを何千億という単位で買収していたらしい。しかし今ではタイムズスクエアで見かけた「SONY」の宣伝掲示板は小さく、真横のLG社は2倍くらいの大きさで大宣伝していた。衰退している原因は何だろう…私は他社と日本企業の広告の違いにもあるのではないかと認識した。
 日本の企業は「モノ」の個体を重視した宣伝に対し、他国の企業では「モノ」の宣伝よりも会社のブランド性を重視した宣伝であった。一概には言えないが、私は会社のブランド性をアピールした宣伝に引きつけられた。
 さらにアメリカ人の家電へのニーズも変わってきているのでは?とも感じた。
 アメリカから他国の企業のマーケティングを見た時、果たして日本企業は他国のニーズに応えるためのマーケティングをしているのか疑問に感じた。

宮原 健太  (松本秀峰中等教育学校/中4(高1)・塩尻市)

☆アメリカの政治について

 7月30日、ワシントンDCの議員会館で、インディアナ州の上院議員であるジョー・ドネリー氏にお会いした。短い時間だったが、ドネリー氏は私たち、学生記者一人一人に握手をしてくれた。
インディアナ州ミシャワカと塩尻市は姉妹都市になっていることもあり、ドネリー氏は「日本と我々は重要なパートナーだ。より交流を深めていきたい」と話してくれた。
 在米日本大使館の公使、千葉明氏にアメリカの議員、アメリカの政治体制についてうかがった。アメリカでは地方議員や下院議員を努めた後、上院議員を務めるのが一般的で、各地方を重視した政策を立てることが多いそうだ。
 各議員が地元重視の政策を立てるもう一つの理由として、南北戦争以来、州の独自性が重んじられているからということも言える。地方ごと、州ごとが強調されることから、国の予算の中で各州に割り当てられる部分も大きいようだ。
日本では"議員は国の代表者"という考え方をされ、国会で各地方のことをわざわざ議論しないように思われる。
 ただ、東日本大震災の福島第1原発事故以来、日本では様々なエネルギーの確保の仕方が考えられてきている。地元をよく知る各議員がそれぞれの地元にあった最も良い効率でエネルギーが確保できる発電方法を考え、それを互いに議論しあう場としての国会が今の日本では必要になってきている気がする。今ある日本の仕組みに加えて、アメリカで学んだことも考えながら、これからの日本のあり方を考えていきたいと思った。


☆国連が担う重要な役割

 最近、国連の機関で話題になっている国連世界食糧計画というものがある。国連本部を見学した際に、その中で貧しい地域に届けるという物資を見せていただいた。
特に印象に残っているのは、板に塗ることで黒板になるというペンキだ。これは何らかの原因で黒板がないときでもしっかり子供たちが教育を受けられるようにというために開発されたものらしい。
 国連の基本方針には国際平和、軍縮、人権の獲得、教育を受けること、などがあるそうだ。国連世界食糧計画はこの目標を全て達成できそうで、私はとても感心してしまった。貧しい国の子供たちに学校で食糧を分け与えることで、その子供たちの飢えが改善されて、そして学校に来る回数がどんどん増えれば、教育が改善されるし、学校で予防接種が行われることで医療も改善される。またこのシステムではたくさん学校に来ることで、月の終わりに家族に食べものを持ち帰ることができるようだ。そのため子供だけでなく、その家族も助けることができるのだ。
 またこのような活動は食糧不足を助けるだけでなく、これが原因で起こる紛争を未然に防ぐこともできるのだ。食糧をコントロールすることは、少し嫌な感じもするが、その後のその子供の人生が大きく変わるということを考えると、本当にすごいシステムだと思う。

横山 由貴  (松本美須々ケ高校/高2・松本市)

☆学びの素晴らしさスミソニアン

 成田空港からの直行便が到着したダレス国際空港を後にし、着いたのはスミソニアン国立航空宇宙博物館である。中に入ると日本と比べものにならない広さだった。広く開放的な博物館は賑やかで日本の博物館の雰囲気とはまた違った印象を受けた。
 最も私の目を引いたのはエノラ・ゲイである。銀色の巨大な機体は他に比べ一層目を引き、1945年、太平洋戦争末期広島に原爆を落としたあのエノラ・ゲイであると語っていた。
 エノラ・ゲイという名前は操縦士ポール・ティベット氏の母親の名前から付けられた。機体に書かれている数字の82は元は12、また尾翼にあるRという字は第6爆撃隊を示しているがそれらは全てカモフラージュであり、戦争のために作られたということが伝わってきた。
 他にも特攻機の「桜花」や夜間偵察機「ブラックバード」など戦争に深くかかわるもの展示されていた。
それらを後にして奥に足を進めると全長37メートル高さ17メートルの巨大なスペースシャトルが堂々と展示されていた。30年近く働いてきたそのスペースシャトルは成し遂げた仕事の偉大さを物語るが如く鎮座していた。
 見に来ていた人たちに何か一番気になったかを聞かせてもらった。友人と来ていたスコット・ドーゼルさんは「エノラゲイ、世界の歴史を一番変えたと思うから」、カナダから来ていたブリアンロッキンソンさんは「スペースシャトル、宇宙へ行ったから」、兄弟のジェラマヤ君とザックライアン君は「ブラックバード、ジェット機みたいでかっこいい」とそれぞれだった。
 老若男女それぞれがいろんな事を思い、学べるスミソニアン博物館の素晴らしさを実感できた。



☆アメリカと日本の新聞を知る

 アメリカの新聞と日本の新聞、違いはあるのだろうかと疑問に思った私は共同通信社ニューヨーク支局の支局長船津靖さんにお話を聞いた。
 日本とアメリカの何が違うか。それはまず第一に読者層が違うそうだ。日本の新聞は誰にでも読めるようにわかりやすい内容になっている。これに比べアメリカの新聞は、高学歴の大人や、アメリカ国籍以外の人達が読んでいるそうだ。ニューヨークタイムズという新聞約100万部のうち50万部はアメリカ人以外の人が読み、新聞の内容も密度も日本と比べものにならないくらい多いという。イギリスも同様だそうだ。
 アメリカは各社ごとに特色があり、それがよくわかるのは大統領選挙や州知事選挙だ。各新聞社が理由や意見を述べ、自分が推している人を載せる。日本の新聞では見られないことで、アメリカの発言の自由を感じた。
 アメリカも日本も、新聞業界は今後どう読者を獲得していくかが死活問題であり、サバイバルだ。ただ、新聞とはリーズナブルな値段で、多くの人が世の中について知る事のできる大事な媒体なのだ。これを機にまずは日本の新聞からしっかり読んでいこうと思った。

☆アメリカでもらったチャンスの種

 成田空港から人生初めての飛行機に乗っておりたったのは、ダレス国際空港だ。映画で画面を通して見た空港が目の前にあり、そこの大きさ、迫力に圧倒された。
 ワシントンDCに到着して一番印象に残ったのはリンカーン記念館と国立航空宇宙博物館である。リンカーン記念館に着いた時は、早くあの大きく偉大なリンカーン像を見たくて見たくて仕方なかった。空港と同じで、よく映画で見るあの像が目の前に座っていた時は興奮と感動で言葉を発することができなかった。
 リンカーン大統領の有名なスピーチや、キング牧師が演説の時に立った場に自分が立つことができた。国立航空宇宙博物館では別館、本館どちらも興味深かった。広島に原爆を投下したエノラゲイや、特攻機の桜花、巨大なスペースシャトル。本館では零戦、メッサーシュミット、本やテレビでみた物が目の前に広がる興奮は今でも忘れられない。
 ニューヨークでは国連本部へ行った。そこはアメリカではなく、約130カ国の土地だそうで、そこを訪れただけで約130カ国に行った事になるそうだ。あの短時間で130カ国とは…と最初は信じられなかったが、そう思うと少し誇りを感じることができた。世界がもっと友好的によりよくなるための話し合いが行われている場所に、私は訪れることができたのだ。
 ガイドさんのお話も興味深く、貴重な体験だった。この日、ニューヨークは雨だった。トップオブザロックでの夜景を楽しみにしていた私は少し残念だった。しかし雲がかかってぼんやりと光り輝くニューヨークは中々よい物だった。170階の高さから見るニューヨークは明るくて夢や希望の町だった。曇りだったが…。
 国際色豊かなアメリカ。食事からしても国際色豊かだった。中華料理、ドイツ料理、イタリアン料理、韓国料理、そしてアメリカ料理。いろいろな国に触れることができた。
 また行く前はまずい、まずいと聞いていてとても心配していた食事だったが、塩気が強いだけで普通においしかった。量は多くて多少残してしまった。アメリカ料理のチーズバーガーはとても大きくて驚かされた。中のパテは厚くジューシーで日本では絶対に食べることがないなと真剣に考えてしまった。ハンバーガーが大好きなので完食はした。時間がつまっててゆっくり食べる事ができなかったのが残念だった。
 帰りのJFK空港内でのショッピング、家族にお土産を買える最後のチャンスだった。忙しくて場所場所でお土産が買えず、ここで買わねばとマグカップを家族の分だけ買った。白と黒とピンクのマグカップは少々高かったが家族に喜んでもらえて嬉しかった。
 JFK空港では、もう一つ大事件が発生した。5ドルを足元に落とし、気付かなかったのだ。空港には危ないから気を付けてと言われていたし、何よりも気付いていなかったのだからその5ドルとは永遠の別れかと思われた。
 しかし、いきなり後ろから声をかけられ、振り向くと感じのよい男性が、落としましたよと英語で言い、私に足元の5ドルを私に渡してくれた。アメリカにいる時、通じない英語を一生懸命聞いて分かろうとしてくれたり、ドアを開けておいてくれたり、Thank youというと必ず返してくれたり、たくさんの日本にいたら味わう事のできないあたたかさに触れる事が出来た。
 今回、このような機会がなければ知ることができなかった事、考えることができなかったこと、見ること、聞くことなどたくさんのチャンスの種をもらうことができた。


カテザ ニャーシャ  (諏訪二葉高校/高1・富士見町)

☆国立アメリカ歴史博物館を訪れて

 ワシントンDCの取材で特に印象に残っているのは「国立アメリカ歴史博物館」での取材だ。この博物館には、アメリカ合衆国の歴史や文化に関する多方面の作品がたくさんあった。その中でも、特に心に残っているコーナーがあった。それは、黒人の誰にとっても、そして、日本人とアフリカ人のハーフである私にとっても重要な歴史が残されている1つのコーナーである。ここには、1862年に奴隷解放を宣言したエイブラハム・リンカーン大 統領が身に着けていた服装や彼が暗殺された時に被っていた山高帽が展示されていた。
 「私は生まれつき奴隷制には反対の人間である。もし奴隷制度が間違っていないとするならば、この世に間違いはなにもない。そう感じずにいる時はひと時もない」。リンカーンのこの言葉を読んだ時、ショーウインドウの中からタキシード姿のリンカーンが語りかけているような気がした。
 公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・Jr牧師に関する展示もたくさんあった。私は父に教わったことや、インターネットで調べたことから、この2人の指導者を尊敬している。そこで、この2人の人物について、また彼らの行動について、アメリカの人はどう感じているのか聞いてみたいと思い、一人の黒人の女性ユアナ・コリンズさんにインタビューしてみた。
 二人の孫をつれて博物館を訪れていたユアナさんは、自分たち黒人にはどのような過去があり、現在に至っているのかを孫たちに教えるためにここに来たと言う。「リンカーンはとても良いことをしてくれた。でも、奴隷解放の時の黒人はお金もなく、住むところもない状態だったのだと思う。その面では、完全に解放されたとは言えないかもしれない」
彼女はまた、マーティン・ルーサー・キングが指導した公民権運動があったから今があるのだと思うとし、「アフリカ系アメリカ人のオバマ大統領の力で、現在のアメリカは確実に良い方向に向かっていると思う」と話してくれた。
 このような大切な歴史は、彼女が孫に話したり、私の父が私に話してくれたりしたように、次世代にしっかりと語り継がれることで、世界の平和や人権を守っていかなくてはいけないと思った。


☆国際連合を訪れて

 ニューヨーク到着後最初の見学場所は国際連合だった。テレビや学校の教科書などによく出てきて名前だけはよく知っていた国際連合。到着するなり早速感動したのは、私が生まれた国ジンバブエ、そして日本の旗を見つけた事だった。そして建物に入ると、いろんな国の寄贈品が目に飛び込んできた。寄贈品とは、国際連合の加盟国が何か記念に寄贈したもの。国際連合には193の加盟国があるので、最大193ヵ国分の寄贈品が展示されているということになる。
 今回の見学で私たちは見ることができず残念だったが、日本が寄贈したのは「平和の鐘」というもので、毎年総会が始まる頃である9月21日に、平和を集うために鳴らすそうだ。
 国連の見学で、私たちがまず入ったのは、経済社会理事会。54か国で構成されている。「こんなにたくさんの加盟国があれば通訳も大変ではないのか」と思ったが、国際公用語というのが決まっていて、公式会合などでは英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、アラビア語の6言語で翻訳される。会合には各国の代表者が集まる。ということは、代表者はこの6言語のいずれかが堪能でなければいけないのだろう。
 この見学で特に印象に残ったのはユニセフのSCHOOL IN A BOXという展示品だった。「箱の中の学校」ということで、この箱には壁などを黒板にするためのペンキとはけ、勉強するための鉛筆やボールペン、ノート、三角定規、コンパス、そしてピーナツバターなど、たくさんの物がぎっしりと入っていた。この小さな箱を待っているたくさんの子ども達がいること、そしてその箱の意味を考えると、ものすごく貴重なもののように感じた。


小林 大純  (岡谷東高校/高3・箕輪町)

☆世の中をよいものにする

 ワシントンDCでバスから降りると、太陽が真っ青な空から我々を照らした。そして視線を上げるとそこにはギリシャ神殿のような建物がそびえ立っていた。リンカーン・メモリアルだ。
 ここはアメリカ合衆国16代大統領エイブラハム・リンカーンを記念して建てた記念館で、館内にはリンカーン大統領の像やゲティスバーグ演説の内容が壁に彫られている。ゲティスバーグ演説といえば「人民の、人民による、人民のための…」が有名ということもあり、この記念館前では数多くの公民権獲得に向けた演説が展開された。その代表的なものがキング牧師による「I Have a Dream」である。
 これらは大きく日本の教科書でも学ぶ部分である。では、それに付け加えて、日常にあった差別やそれに対抗したことにも目を向けてみよう。
 我々は国立アメリカ歴史博物館へ行った。博物館内には、一つのカウンターに四つの椅子が並ぶシンプルな展示がある。これはアメリカ南部ノースカロライナ州のグリーンズボロという街で起きた話を説明している。
 それは1960年に起きた話だ。当時は街中のあらゆる場面で黒人差別があった。そのうちの一つ、ある店のカウンターでも差別があった。その店のランチカウンターは白人専用の席で、黒人が座ることはできなかった。しかし、若い黒人男性4人はそれを承知の上でカウンター席に座り、コーヒーを注文した。人種差別に対抗するためである。店側はこれを無視していた。しばらくして黒人男性たちは店側に追い出されるが、次の日、また次の日と日を重ねるごとに黒人の仲間を連れて人数を増やし、そのカウンター席に座り、コーヒーを注文し続けた。
 こういった「無言の抵抗」はこれを機にアメリカ南部各地へ広まり、こうした差別抵抗運動は、翌年にはアメリカ南部各地で7万人以上が参加するほどに発展した。
 今日でも日常的に人種差別は続いている。可能なら、私は日常的な差別について取材を通して知りたかったが、それは考慮の上、不可能だった。
人種差別というものは職に就くことにも関わってくる。昔は、アフリカ系アメリカ人は差別の影響により就ける職業がかなり絞られていた。今回私がアメリカで感じたことは、あらゆる施設の警備員や力仕事などにはアフリカ系アメリカ人が常にいたことだ。しかし、それは個性によって選ばれていると私は信じたい。
 我々日本人も"人種差別"という言葉から目を背けてはならないのではないかと思う。
もっと視野を広げてみよう。世界には多くの人種や民族の中で暮らしている国がある。お互いが理解し合って共存しなければ、よい社会を、よい国を形成することができない。どのようにしたら共存できるかを一人一人が考えよう。
 また、先程のランチカウンターの話のように、たった4人でも世の中をどうにかしようと思えばどうにかなる。ということに習い、私は、些細なことでも大きな結果を招くということを忘れずに日々励んでいきたい。


☆アメリカ体感・ヒップホップの本場で取材

 私はヒップホップミュージックが大好きだ。俗に言うラップである。日本中、いや世界中で若者を中心に絶大な人気を誇っているこの音楽の発祥の地はニューヨークだ。私は街で、ヒップホップについて取材した。
 私は取材をする中で、「最近のヒップホップは本質を見失っている」「もっとラップの歴史を勉強しなければ」と訴える日本人ラッパーの言葉が気になっていた。
 ヒップホップは黒人から生まれた文化で、人種差別と因果関係がある。実際、ニューヨーク出身のラッパーの大多数が貧困地域の出身で、彼らは生きるため、お金を稼ぐために音楽という武器を使う。音楽を通して、自分の生きざまや街で起きている現実を訴えるのだ。
 では、本場の米国ではどう受け止められているのか。ニューヨークで取材した30代の男性は「最近のラップのメッセージは多様化している」と話す。都市郊外の貧困地域で生まれ育った人と、それ以外の人とではラップ本来のメッセージの感じ方が異なると言う。ワシントンDCで取材したニューヨーク出身の40代男性は「ラップは人種差別についてというよりも世代的な音楽だと思う」と語る。
 取材では、米国出身の人以外からも話を聞いたが、彼らもまた、ラップをカッコイイ音楽としかとらえていないと答えた。
 一方、ニューヨーク郊外出身の黒人の方に話を聞くと、「ラップは小さいころから聴いている。自分自身、差別などをされた経験に痛感する部分があるのでラップは好きだ」と答えた。
 クールでカッコイイラップの裏側には、黒人差別などの負の歴史が絡んでいる。物事は常に表と裏がある。グローバル化が進むこれからの世界。私は物事の表面だけを見るのではなく、裏側にあるもう一つ先のことを理解できるようになりたい。

宮澤 奈々  (飯田高校/高1・飯田市)

9.11に学ぶ本当の力

 「本当の力とは、権力やお金、武器ではなく、心の深みにある平和に根ざすものなのです」
 9/11トリビュートセンターの取材で、あの力強い話を聞いている時、私はふと、この言葉を思い出した。この言葉を唱えたのは、有名なベトナム人の禅僧で、私は以前に彼が書いた本を読んでいた。その禅僧、ティク・ナット・ハン、彼の言葉を理解した瞬間だった。
 2001年9月11日、テロリストがアメリカの街を攻撃した。たくさんの人が逃げ場を失い、数秒のうちに建物が崩壊した。そんな中、消防士たちは1日中尊い命を探し続けた。自分の身を犠牲にしてまでも働き続けるその精神に私は感動した。
 今、ニューヨークの街は原型を取り戻している。これは、たくさんの人の心の優しさがあったからだと思う。話をしてくださった元消防士のリー・イエルピさんは、こう言っていた。「憎しみの心を持ってはならない」と。もし私ならば、憎んでしまっていたかもしれない。しかし、実際にこの悲劇を経験された方々は、前向きで気持ちが強い方々が多いと思った。平和を築く人々の心の中にはきっと、ティク・ナット・ハンが唱えたような、あの教えが自然と備わっているのかもしれない。
 ならば私達は何をしなければならないか。それは、この悲劇を、そして人々の心の優しさを後世に「伝える」ということだと、私は思う。

☆世界で働く日本人

 日系3世のアイリーンヒラノさんのお話をお聞きしている時、彼女の周りには数名の日本人がいた。
 木下英臣さんは私と同じ飯田高校の出身だ。卒業後、学習院大学の法学部を経て共同通信社に入社し、9年間政治部で働いた。その後、ワシントン支局にて国防総省などの取材をし、一度東京に戻った。そして、去年からワシントン支局の支局長として仕事をされている。
 そんな木下さんは、日本に帰省するとよく、他国の仕事仲間を日本の居酒屋に招待するという。私は異文化を知る良いきっかけになると思った。素敵な英語で仕事の話やフリートークを繰り広げる彼に、私は憧れた。飯田高校の先輩の中には、このように世界で活躍している方もいるんだとあらためて感じた。
 2人目は、アイリーンヒラノさんの通訳者だった、岡崎詩織さんである。彼女は、アメリカで生まれて、今、米日カウンシルの広報を担当しているそうだ。彼女の話を聞いていると、充実した生活を想像することができた。
 そんな岡崎さんが私たちに話をしてくださっている時、アイリーンさんに通訳をしている男性がいた。彼の名前は田中心一郎さん。国際基督教大学(東京都三鷹市)出身の方だ。今は、カリフォルニア州のモントレー国際大学院で、研究に励まれている。
 私は、2人の通訳さんを見て、尊敬し、とても羨ましく思った。私もあんな風に英語でコミュニケーションを取ってみたい、英語を使って、自分の気持ちや連絡事項などを伝えてみたい…。今回の取材で自分に対しての課題も見つけることができた。
 アイリーンヒラノさんは、最後にこう言った。
 「若い人たちの力で、日本とアメリカの関係を強化していってほしい」
 まず私たちは、身近にも世界に出て活躍されている方々がいるということを知らなければならないと思う。そこから何かを感じ、生かしていかなければならない。そうすることで自分の世界を広げることができる。そして、自分の歩む道を大きく広げ、世界を見ることができる大きな心の持ち主になりたい。