一般社団法人 長野県新聞販売従業員共済厚生会

取材報告

北沢 佑奈   (飯田高3年・飯田市)

共同通信社のワシントン支局長は

飯田市出身の木下英臣さんです。飯田高校、学習院大学の法学部を経て、共同通信社に入社し、9年間、政治部で働いていました。7年前、自ら希望しワシントン支局にて国防総省などの取材をしていました。その後、一度東京に戻りました。そして今年、支局長としてワシントン支局に戻ってきました。
ワシントン支局では14人の日本人記者と2人の外国人記者が働いています。アメリカのニュースを取材して執筆し、各地から送られてくる記事を編集して、東京へ送っています。
ワシントン支局はプレスセンター内にあるため、世界各国から人が集まり、「ニュースを伝えたい」という同じ目的を持っている人が集まっているので情報交換がしやすいそうです。DSC_0696.JPG
木下さんがこの仕事をしていて楽しいと感じる時は、「自分が思い描いていた事ができて、それが人に伝わった時」だそうです。そんな木下さんの心に残っている取材はイラク戦争で州兵だった息子を亡くした母親への取材です。その悲しみや辛さをいかにして人々に知らせるか、試行錯誤したそうです。
木下さんの部下のサラ・アンポルスクさんは木下さんについてこう言います。
「木下さんは、面白くて優しい。そして自分の色々な経験を話してくれる。」
仲間からも信頼され、私たちに情報を伝えてくれる木下さん。
最後に木下さんにこの仕事の良さを聞きました。
「他の人ができない体験ができて幸せです。」

グラウンド・ゼロで

「9/11 Memorial」と呼ばれる9/11記念碑は2001年9月11日の同時多発テロ、1993年2月26日の爆破テロ事件で亡くなった2983名の犠牲者の偲び、あの惨劇を忘れないために世界貿易センターのツインタワーの跡地に建設されました。そして2011年、同時多発テロ10周年目に一般公開されました。
ノースタワー、サウスタワーがあった場所にそれぞれ「ノースプール」「サウスプール」があります。
これらのプールは中央の空洞に、約9メートルの人工滝が流れおちるようになっており、それは人々の涙を表しているように感じました。そしてプールを取り囲む青銅板に犠牲者ひとりひとりの名前が刻まれています。その名前はその時にいた場所や、その日に亡くなられた他の方との関係を反映するために名前を隣に並べるなどしてあります。
プールの周りは記念広場が広がっており、「サイバーツリー(生還の木)」と呼ばれる9/11以降グラウンドゼロの残骸に埋もれ、切り株として発見されたマメナシの木が1本、その他はスワンプ・ホワイトオークが植えられています。
そしてそこには名前見て涙を流している人、献花している人、写真を撮っている人、子供に話しをしている人、怒りをあらわにしている人など様々な表情をした人がいました。オーストラリアから来たケン・アンドリュースさんバーバラ・アンドリュースさん夫婦は17歳の孫に9/11の惨事を伝えるために訪れたそうです。そして9/11について「本当にひどい事件だった。」と話してくれました。このように世界中の多くの人々が二度とこのような惨劇が起こらないことを祈るために訪れます。

DSC_0934.JPGトリビュートWTCビジターセンターには、9/11の惨事を伝えるため遺品が展示されています。私たちが普段使っているスプーンやフォーク、ドアの鍵などは、すざまじい火と熱に焼かれて見たことのない姿でした。ハイジャックされたユナイテッド航空93便の搭乗券、ボロボロになった消防服、飛行機の窓枠なども展示されています。何度見ても胸が痛くなる事件当日の映像も流れています。
犠牲者の方々2949名の写真が家族から寄贈され、青空をイメージした水色の壁一面に貼られています。印象的なのは地階に行く階段をおりる前に目に入る数々の写真です。その写真のすべてがハグをしている写真です。無事に再会できて抱き合っている写真、悲しみを慰めあうように抱き合っている写真。見ていて胸が締め付けられるようでした。
地階に行く階段には多くの千羽鶴がつりさげられています。地階には記帳台があり、世界各国の言語で思いが綴られています。
今、「New York never give up.」を掲げ、世界貿易センターは再建されています。
9/11当時、救出活動をした女性消防士のブレンダ・バーグマンさんにもお話しを聞くことが出来ました。自分は死ぬのではないかと思いながらも、人を助けたい、守りたいという一心で救助にあたったそうです。仲間も犠牲になったけれど、悲しんではいけないというトレーニングを受けていたために、あえて忙しくして気を紛らわせていたそうです。しかし1年後、悲しみが押し寄せてきたといいます。彼女は当時の光景を「悪夢よりひどかった」と強くいいました。
そしてブレンダさんは当時の50万人ものボランティアなど支援をしてくれたすべての人に感謝し、亡くなった仲間の慰霊のために自分の体験を話し続けています。